上か下か

AI

学校で能力が「上」と判定されても、社会人としても能力が「上」と判定されるかどうかは、わからない。

上下の話なんだけど、日本語の小説はだいた縦書きが多くて、右から左へ時間が進行する。一方、英語などの小説は横書きが多いので、左から右へ時間が進行するのかな。アラビア語は横書きでも、右から左へ書くので、右から左へ時間が進行するのかもしれない。

これは自分の経験だけど、エロ小説(日本の)って、横書きより、縦書きの方がよりエッチに感じる。同じような内容でも、縦書きの方が訴えてくる。面白いよね。一般的に、小説家は縦書きになっているために、随分と得をしているんじゃない?

それで、日本の義務教育の教科書って、国語は縦書きでも、あとは全部横書きかな? でも、国語の教科書の内容が生徒に訴えてくる、という話は聞かないな。逆に、国語の教科書で小説を読むと、逆にその小説や小説家に対する興味を失うよな。

だって、国語のテストなんかで、文部科学省=教師は、作者に確認したわけでもないのに、わかったフリをして、この作品の主題・テーマは何? この部分での主人公の気持ちは何? 「それ」が指すものは? タイトルの意味は? とか、余計なことを質問してくる。馬鹿じゃない? それだったら、小説じゃなくて、文部科学省やお仲間の国の役所が出している審議会の報告書をネタにしたほうが面白いよ。無意味で、結構笑える。社会勉強にもなるし、いいんじゃない? 価値のある文学作品を国語教科書に収録しておきながら、馬鹿な質問を出してくることで、結果的に生徒=読者に、本離れを推進しているのは文部科学省の馬鹿な教育のせいだ。だから、自分で小説を買って読んだ方がよっぽど面白い。

あ、思い出した、清水義範「国語入試問題必勝法」という短編小説があって面白いの。出てくる国語のテスト問題に使われている文章は、ほとんど、ただ文章の形をしているだけの、意味不明の悪文であり、それを解読せよというのだ。こんな問題を丁寧に説いている方が馬鹿になる。主人公が、具体的に回答する問題では、自分は3問とも正解だった、20年以上前に読んだだけなのだが。法則は完全に忘れているのだが、わかる。というか、3問目の正解は今でも覚えているのよ。あと自分の勝手な理解では、「幻想」という選択肢は絶対に正解には入らないこと、作者が言いたいことを選択肢から選ぶ際には、作者の自慢話なんかが正解だということも自分なりに理解していたからだね。

だって、日本人が国語の勉強を普通にしていたら、普通にいい点数がとれて全員合格しちゃうじゃない? だから受験生を落とすために、わざわざ変な問題が作られているの。なかなか、この本、受験の参考になるかもだよ?

この作品の中の出題に使われている長い文章は、吉原源三郎「英語語源日本語説・序文」というものだった。宮崎駿監督がアニメ化したあの有名な「君たちはどう生きるか」の? と思ったら勘違いで、「君たちは」の方は、吉野源三郎だった。一文字違うだけで、紛らわしいなぁ。そうしたら、今までkindle化されていなかったのに、今日見たら、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」がkindle化されているので購入した。

清水義範「国語入試問題必勝法」 (講談社文庫)より抜粋。

「その手紙は、国語の問題ができるようになっても、国語力とは何の関係もない、ということをよく物語っていた。いやむしろ、ああいう問題で点が取れるようになると国語力が低下するということを物語っていたかもしれない。」(抜粋ここまで)

でもさあ、大学に入ると、その教授や助教授(准教授)が書いた教科書を、勝手にテキストに指定されて、買わされたりするんだけど(強制的に、彼らの売上に貢献させられる)、たいした中身がないよねぇ。文章レヴェルも並みだし。これなら、世の中にもっといい本が沢山あると思うんだよね。

つまり、大学なんか行かずに、一流学者の本を自分で買って読んで理解していった方が、100倍役に立つかもだよ? あるいは、Wikipediaをどんどん読んでもいいんじゃない?

もはや、学歴がその人間のレヴェルを保証するような時代ではないと思うのだよね。だって、いくら暗記したって、ネット検索すれば、いつでも情報が引き出せる時代にとっくに突入しているんだよ? それにAIも登場して、仕事を代わりにやってくれる時代なのよ? そういう時代に、社会人として、どういう能力が必要とされるのか? そこを文部科学省の役人、教育審議会の審議委員は、あまり考えていないよな。だって、彼らは、主として、一般的な企業に勤務する人間ではないから。

教育審議会の先生方は主に大学教授、それをとりまとめているのもお役人である文部科学省であり、相変わらず旧態依然。大学を含めた学校教育が古いのであり、本当に頭がいい人間がでてくると米国の傀儡政権である自民党政権がひっくりかえされる危険性があるので、馬鹿ばかりがでてくる教育制度になっているのだ。

つまり、その人間に学歴があっても、社会で通用するかどうかは、はっきりいって不明であり、何か、もっと別の基準で、その人間の実力を測定しなければいけない。つまり、学校で能力が「上」と判定されても、社会人としても能力が「上」と判定されるかどうかは、わからなくて、会社次第、本人次第だ。だって学校と社会では、明らかに必要とされる能力や、評価基準が異なるからね。その断絶をいつまで続ける気なのか、ということですよ。自分は文部科学省の学校教育こそが、日本の国力を下げている最大の要因だと思っている。

あ、話を元に戻すと、作文とか読書感想文の原稿用紙は縦書きだよね。縦書きの方が敷居が高いというか、横書きの方が書きやすくないかな。自分もブログを、自然に横書きになっていたのだが(というか、他の人のブログを見ても、縦書きというのは見たことがないぞ)、縦書きよりも横書きの方が書きやすいというか、気軽に書くことができる。案外、PCなどを使っている作家たちは、横書きで文章を作成して、縦書きに変換してから、出版社に送っていたりしてね。全然問題ないけど。

それで、上下っていうと、成績の上下みたいで、上が良くて、下が悪いイメージがあるけど、どうなのだろう。自分が時々アクセスする、深層無意識領域は、多分、顕在意識の下にある。そこは危険であると同時に、豊饒な領域でもある。

ネット情報(劇団レトルト内閣さん)から引用。

「奈落(ならく)は、ホール・劇場などにおけるの舞台機構の一つ。舞台の真下のスペースや、花道の床下をいう。・・・この空間が「奈落」と呼ばれるようになったのには、一般的には暗くて深い所に位置するからと言われるが、一説には華やかな演劇舞台の陰に嫉妬や怨念が潜んでおり、この場所では霊的な現象などを含め、事故など様々な事象が起こることがあるからともいわれる。」(引用ここまで)

下部に怨念があるということでは。りんたろう監督の傑作アニメ映画「さよなら銀河鉄道999」(1981年公開)で、プロメシュームの巨大な精神体が、惑星大アンドロメダの中心部にある。これは、これぞ傑作の一作目のアニメ映画「銀河鉄道999」で、魂を半分持つ、人間の姿をしたプロメシュームが破壊されたこと(と彼女が建造していた惑星メーテルを破壊されたこと)に対する、彼女の怨念の固まりであり、描写は怨念そのもののものすごい絵柄だ。たしか、この作品の制作時に、美術監督の椋尾篁に対して「舞台的な要素を入れられないか」とりんたろうが相談していたようだが、まさに設定が舞台的な要素を含んでいる。

「さよなら銀河鉄道999」は、45年前のアニメだけど、この怨念のプロメシュームの巨大な精神体の表現こそ、アニメの作画の一つの極致と言っていい。それをもとに、りんたろう監督はアニメ映画「幻魔大戦」(1983年公開)で終盤の火焔龍の原画を、同じ金田伊功に描かせているが、「さよなら銀河鉄道999」の方が、圧倒的に上手い作画になっている。

「下」を粗末にはできない。「下」にこそ、案外、世界の本質があるかもよ?





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