宮崎駿と偽物(にせもの)の金

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魔法使いであっても、普通の生活を送ることの重要さ。

「ルパン三世 カリオストロの城」「千と千尋の神隠し」がそうだが、宮崎駿は、贋金(にせがね)、偽(にせ)の金を物語で扱うと、突然、物語のレヴェルが下がってしまう。彼の経済感覚、経営感覚が鈍いからだろうか。

「ルパン三世 カリオストロの城」では、カリオストロ城の地下には贋金(にせがね)づくりの印刷・製造工場がある。ここで作る贋金はゴート札と呼ばれ、精巧な偽札で、世の中で、問題なく普通に使えるのだ。各国政府から発注がある。ここには、日本の1万円のゴート札もあった。

1万円の偽札であるゴート札1枚を、いくらで売るのだろうか? 1万円以上という価格だったら相手が絶対に買わないし、1万円未満という価格だったら、自分だったら売らないで、自分で使うよ? 当然だよね? だから、贋金づくりを商売でやるって、おかしいでしょうが。贋金づくりは商売として成立しない。経営そのものが成り立たない。宮崎駿の設定がものすごく愚かだ。

「こういう贋金づくりという商売は、本来的に存在できないんだよ?」というメッセージがあるのなら、これを不二子のカメラでTV放送し、インターポールの隊員たちが沢山、落下傘で降下する・・・にはならないと思うんだよね。それだと、インターポールが馬鹿みたいでしょう? だから、宮崎駿は本気で、この贋金づくりを描いているとしか思えない。愚かだよなぁ。

「千と千尋の神隠し」では、湯婆婆(ゆばーば)は魔法使いだが、神様が来る油屋を経営し、対価として金や金貨を受け取っている。貨幣、紙幣、電子マネー、クレジットカードではダメ(千尋の両親はこれだ)で、基本的に金本位制(狭義には、一定量の金を標準的な経済単位とする通貨制度)であり、金が価値を持つのだが、魔法使いでありながら、湯婆婆は金を作ることができない。だから、誰も(何かをもとに)金を作ることはできない、と湯婆婆が信じているのは当然だ。

カオナシが、ずっと手のひらから出している(偽物の)金を、つまり、実際の所、どこから出てきたのかも明らかでない金を、湯婆婆は疑いもなく、受け入れて、器にきれいに積み上げている。カオナシは、食べ物を異常なほど大量に食べ、従業員のことも飲み込み、湯婆婆の「お客様とて許せぬ」という光の円盤の攻撃を受け、湯婆婆は泥を吐かれて埋もれたが、しかし、湯婆婆は一貫して、この金を本物だと信じ込んでいる。千が銭婆(ぜにーば)に会いに行くために海原電鉄の電車に乗っている時でさえ、湯婆婆は、その金を本物だと信じ込んでいた。

従業員を飲み込み、湯婆婆に泥を吐いたカオナシは悪質であり、だからこそ、カオナシが手から出した金なんて、偽物に決まっているじゃないか? 湯婆婆は、なぜ、そのことに気づかない?

そもそも、油屋で出している食事は泥からできており、それに魔法がかかって食料品に姿を変えているだけだ。油屋との契約が成立している者(カネを払っている客とか、従業員とか)はそれを食べても問題ないが、契約が不成立の者(無銭飲食とか)がそれを食べると泥の悪影響がでて、千尋の両親の場合は本性が出て豚になった。

だから、カオナシがおかしくなっているのは、無銭飲食のせいで、だから泥の影響が出ており、従って、この金は偽物なのだ、と気づかない湯婆婆が、経営責任者として無能すぎる。無銭飲食の客は、今までにもいたはずだと思うののだがね。

だから、宮崎駿は、贋金(にせがね)、偽(にせ)の金を物語で扱うと、突然、物語のレヴェルが下がってしまうって、自分は言っているのだ。

「ルパン三世 カリオストロの城」の贋金の場合は、それを作って販売しても、商売として成立しないことに、当時の宮崎駿が気づいていない。あとで気が付いたと思うね、多分。

しかし、「千と千尋の神隠し」の偽の金の場合は、これが偽物だと判断できる現象が確実に発生しているのに、物欲が先走って、これが偽物だと判断する知恵が働かず、馬鹿になる湯婆婆を、宮崎駿はわざと描いている。前述のように、そもそも湯婆婆は泥を食料品に変える魔法は知っていても、泥を金に変える魔法を知らないのだ。「あたしは呪いはかけられるけど、解けない魔女なのよ」と言っていた「ハウルの動く城」の荒れ地の魔女のように、力に限界があるのだ。

カオナシの金が偽物であると見抜けない湯婆婆を、宮崎駿はわざと描いているのはわかるが、いささか、それが長すぎる。

「ルパン三世 カリオストロの城」では、国営カジノから盗んだカネを、ルパンがすかさず、偽札=ゴート札だ(でも、普通に使える)と見破ったが、それが物語の動機になるかというと弱い。「千と千尋の神隠し」では、湯婆婆は、カオナシの金が偽物だと、ずーと見破れないという点で物語が弱い。

貨幣などが使えず、基本的に金本位制の世界で、偽の金を出してくるという発想は、贋金づくりと同じで普通の発想だ。だから、金に偽物があると考えるのは常識でしょうが。

しかし、湯婆婆が、カオナシの金が偽物だと気付くのは、物語のずっと最後の方、銭婆が魔法で作った坊が偽物だったことに気付いたのと同時であり(この2つが偽物であることに同時に気付くのは、実は、カオナシは銭婆が湯婆婆の元へ送り込んだ存在だという意味かも)、湯婆婆と、銭婆との力の差が、ものすごく大きいということを表現している。

まあ、宮崎駿が言いたいことはわかる。それは普段、本物の生活を、つつましやかにしている銭婆と違って、湯婆婆はゴージャスに、でも偽物(基本的に従業員は、男はカエル、女はなめくじ、食物は泥)に囲まれた偽物の生活をしているから、本質が見抜けなくなっているのだ。

だから、最後に豚を10匹くらい並べて、湯婆婆が、千に「この中から、お前のお父さんとお母さんを見つけな」というクイズを出すが、千はすぐに見抜いて正解を答える。

そもそも、自分自身が、本質を見抜けない湯婆婆が出したクイズだから、本物の生活をしている銭婆に手作りで作ってもらった髪留めのお守りをつけている千には、簡単に本質を見抜くことができた。銭婆の言っていた「魔法で作ったんじゃ何にもならないからね」というのは、魔法に対抗するには、手づくり、手作業が一番有効だと言う意味だろう。

つまり、魔法や偽物に囲まれて生活していると人間が鈍くなるが、本物の生活をしていると、人間本来の力が出てくる、それこそが本来の魔法ではないのか、そういうことだと思う。

多分、宮崎駿のその前の作品までは、彼のお坊ちゃん育ち、そういう生活に彼が慣れていたのだと思う。宮崎駿が、(生活費などの出所がはっきりしない)お姫様好きであることや、カリオストロ公国に(どういう技術かわからないが)贋金をつくる設備があることや、オクサレ様から砂金が(どこから出てくるのかわからないが)出てくることでわかるように、生活費なりカネなりが、どこから出てきたものか、よくわからない、その状態で生活する危険性というものを、彼が認識していなかったのだろう。

ある意味、カネがあるのが当たり前という生活を、宮崎駿がしていたからだと思う。彼は、カネは何もない所から自然にでてくるものだ、と思っているフシがある。だからこそ、働いて努力の末に、カネがあり、生活して行けるのだ、という概念が根本から欠けている人物だと、自分は思うのだ。

でも、カオナシの手から偽物の金が出てくるのは、宮崎駿が詐欺に遭ったからではないのか、と自分は推測する。そこで、宮崎駿は、カネのありがたみに、改めて気づいたのではないのだろうか。

だからこそ、本物の生活を、つつましやかに、当たり前のようにすることの重要さに気づいたのではないのだろうか。

銭婆という人物を登場させたことにより、宮崎駿は、一段階、認識レヴェルが上昇している。魔法使いであっても、普通の生活を送ることが重要であり、それこそが最強の存在なのだ。

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