千に贈られた、一見、何の変哲もない、苦団子の強烈な解毒作用
AMAZONの作品紹介から少し引用します。
「ひ弱で不機嫌な少女、千尋は現代に生きる普通の女の子。両親とともに車で引っ越し先の家へと向かう途中で「不思議の町」に迷い込んだ。店のカウンターにあった料理を勝手に食べた両親は、豚に姿を変えられてしまう。ひとりぼっちになってしまった千尋は、名を奪われ「千」と呼ばれるようになり、その町を支配する魔女・湯婆婆の下で働き始める。」(引用はここまで)
宮崎駿は、「ルパン三世 カリオストロの城」(クラリス=王女)、「風の谷のナウシカ」(ナウシカ=王女)、「天空の城ラピュタ」(シータ=王女)とお姫様路線で、走って来たが、今度こそはと普通の少女姉妹を描いたつもりが、表向きは一般人を装っているだけで、ESP姉妹を描いた「となりのトトロ」、「魔女の宅急便」(キキ=魔女)、「もののけ姫」(アシタカ=朝廷軍と勇敢に戦った、エミシの勇者の血を引く高貴な生まれ)と、主人公はずっと特殊仕様である。
しかし、「千と千尋の神隠し」。ここにきて、主人公、千尋は完全に一般人である。千尋=千が迷い込んだのは冥界、そこで働き始めたのは、魔女・湯婆婆(ゆばーば)が経営する油屋で、神の保養施設、あるいは、神のソープランド。
ここでの主張は、前作「もののけ姫」と同様、一切描写されない海外からの視点に立てば、一目瞭然である。「「日本の神」はエッチだし、クサレ神は汚ねえし、「日本の神」は馬鹿で、愚かだ、あれだけ世話をしてやっても、返礼に何もしてくれない。半強制的な契約で働いている労働者や、魔法で豚にされている人間たちを、助けてくれもしない。「日本の神」は無能で、ケチで、無知蒙昧だ。キリスト教などの唯一絶対神のほうが、ずっと優秀なんだぜ。そういう「日本の神」を信仰している日本人は愚かだ。親たちが豚にされて当然だ。日本人はいわば、豚に過ぎない、それと違って、俺たちは優秀なんだぜ」というメッセージである。
この主張は、前述したように「もののけ姫」とほぼ同じ。そこで同じ轍(てつ)を踏まないように、宮崎駿によって、唯一、神によって、千に贈られたものが、一見、何の変哲もない、苦団子の強烈な解毒作用。
オクサレ様は、千に強力な魔法がかかっていることに気づいていた。だから、この汚くなった自分の世話ができるのだ。だが、千、本人の努力もある。そして、両親が豚にされているため、ここで半強制的に働かされていることも知っている。そして、これから起こる騒動(ハク龍の半死半生、カオナシの大暴れ、千が魔女・銭婆(ぜにーば)に会いに行くことも)を知っている。そのすべてに有効に作用する特別な団子を千に贈ったのだ。でも、この団子が一体何なのか、最初は、千にはわからなかったが、とてつもないものであることは無意識的に理解しており、湯婆婆を含めて、一切、他人に見せることもないし、口外もしない。
この団子を食べると、何かを口から吐く。泥に魔法がかけられて、食材や別のものに姿を変えており、腹に入ったそれらのものの魔法が解けて、泥になって異物として吐き出されると、体に害を与えていた魔法も解除されている。それは見ればわかる。
補足しましょうか。口から吐くものが、通称、ゲロだと汚いから泥としてごまかして描いているのではなく、油屋では早い話が、泥を食わせているのです。泥に魔法がかかっているから、食品に見え、食品の味がするだけで。
それで、この泥に魔法がかかった食品ですが、宿泊する神様、従業員などが食べても害はない。それは一種の契約が成立しているから。問題は、無銭飲食した場合です。契約が成立していないから。その例が、千尋の両親であり、カオナシです。だから両方とも、食事をした後に、姿かたちと言うか性質が変質してしまい、本性が表面に出てきてしまった。
話を、オクサレ様の団子に戻しますと、千はこの団子をかじっても、泥は吐かなかったが、何か態度がおかしかった。それは? 湯婆婆がかけたのは、千尋から名前を奪うだけではなく、「そんな、ひょろひょろに何ができるんだい」「なんで、あたしがお前を雇わなけりゃならないんだい」「ぐずで、のろまで、泣き虫で、頭の悪い小娘」という言葉の魔法でもあり、それが解けたのかもしれない。あるいは、それで、千の半分くらいは(かじった団子の量が少ないから)、本来の生命力を持つ千尋本体に戻ったのかもしれない。だから、タイトルが「千と千尋の神隠し」なのだ。だから、湯婆婆に支配される労働者という立場からも、半分くらいは解放されている(湯婆婆が契約書を持っているからね、だから半分くらい)。だから、他の労働者たちが怯える、巨大化したカオナシ相手に一歩も引かず、油屋の仕事を放り出して、海原電鉄に乗車できるのだ。さらに、千=千尋の能力を下げていた他のマイナス要因(両親の放任と無理解による悪影響、本人の無気力、一種の無能、一種の無礼、一種のESPに対する抑圧など)も一気に解毒してしまった。つまり千は、オクサレ様がくれた苦団子をかじって、一種の超人になったのだ。ここで、宮崎アニメの主人公は、特殊仕様である、という系列に千=千尋も並ぶのだ。
で、その特殊仕様のために、本人が悩むのか、といえば、そうだな、状況は悩ましいところはあるのだが、本人が本人そのものの特殊性について、疑問を感じたり、悩んだり、という描写は特段ないかな。そういう意味では、宮崎アニメというのは哲学的ではなかったし、自分のように、自分自身がESPなどであることに悩んでいる人間には、ほとんど参考にならない物語なのだ。あえて一番難しい問題からは目をそらしているのが見えるというか。
でも、千は、この苦団子の威力に無意識的に気づいていて、使い方も知っていて、それを絶対に見せないし、口外しない。それは、宮崎駿監督の新しい表現であり、アニメのレヴェルが一気に上がった、だから、客が入り、DVD、BDが売れ、ベルリン国際映画祭で金熊賞、日本映画としては史上初のアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した。評価が高いのもわかる。
でも、誰も気づいていないかもしれないが。このカオナシって、自分は米国のことでは? と疑っている。顔を見せないのは、異国人、米国人だからだ。日本人ではないので、日本人だけの油屋に入ることができず橋の中間に立っていた。油屋(日本)に招き入れてくれた千には感謝しているので、贈与(薬湯の札)をたくさんくれる。飽食で、(偽物の)金をばらまき、支配する。一種の魔法に毒されて暴走している。
油屋(日本)が提供する食事は泥なのだが、カオナシ(米国)がその対価として支払う金も土くれなのだ。カオナシには、自分の食べている大量の食事が泥だとは、顕在意識では気が付いていないが、潜在意識では泥だと気付いている。だから土くれで支払うのだと自分は思う。「泥仕合」という言葉があるが、「互いに相手の欠点・失敗・秘密などを言い立てて非難しあう争い」とでも言う意味で、案外、この構造は、日米間のある状況を表しているのだろうか?
「もののけ姫」で感じたが、宮崎駿自身がディズニー資本(など)、つまり米国の影響を受けて彼の作品制作に悪影響がでている。その象徴がカオナシだと思うのだ。それで面白いのは、そのカオナシにも苦団子を食べさせて、解毒してしまう。爆笑です。お見事。
あと、別記事で考察したように、湯婆婆は、SATAN、銭婆は、LUCIFERだと思う。SATANは確かに強い力を持っているが、その力の源泉、制御はLUCIFERが握っているような気がするのだ。銭婆は質素な暮らしの、知恵のある、いい魔女でしたね。カオナシは、結局、銭婆のもとで暮らすことになる。「カオナシ、お前は、ここにいて私の手助けをしておくれ」。米国は、LUCIFERの傘下に入る運命なのかな?
追記
文学小説では、同じ性別の双子でも、同時に登場する場面が1回もない場合は、同一人物である、という、原理原則があります。その原則に従うと、湯婆婆、銭婆は双子の老婆ですから見た目も、声もそっくりですが、1回も一緒には登場しません。あるいは、同一人物なのかもしれない。そういえば、物語の最後の最後で、湯婆婆が千に「お前の勝ちだ、さっさと行っちまいな」とぶっきらぼうに言う割には、なにか顔半分しか見えないものの、微笑んでいるような気もするんですよね。あるいは、本当に同一人物なのかも。こればっかりは、宮崎駿監督でないと、わかりませんね。


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