魂が半分しかない、ということ。

ESP

半分現実世界、半分冥界、罪の意識が希薄、そういう存在だと思う。

松本零士のCOMIC「銀河鉄道999」で、相当な未来の地球で貧富の差が激しい社会。裕福な人間は、体を機械化しており、部品さえ交換すれば、それこそ永遠に生きることができる。ただし高額だが。だから、貧乏人は生身の体でスラム街に住むしかない。貧乏人の間では、宇宙には機械の体をタダでくれる星があり、そこには銀河超特急999に乗っていけばいい・・・という噂が流れているが、実際にその星に行って、機械の体になって、帰って来たという人に出会ったことがない。

主人公の鉄郎も、999に憧れる若者で、謎の美女メーテルにパスをもらって、銀河鉄道999に一緒に乗り、機械の体をタダでくれる星に向かって行く・・・、という物語。

それをアニメ映画化した、りんたろう監督の傑作(一作目の)「銀河鉄道999」で少し出てきた設定で、二作目の「さよなら銀河鉄道999」で、もっと明確になるのだが、人間の魂を(多分)半分に分割し、半分を機械の体に、もう半分を機械化母星あるいは機械化世界の首都惑星の中心部に移植する。すると、その機械化惑星は、つまり、魂を持つ巨大な機械の体(=機械化惑星)となり、自分が、人の姿をした存在Aと、惑星そのものの存在Bと2つに分かれて存在することになる。

機械帝国の女王プロメシュームと、その娘のメーテルがこの状態になっており、一作目の終盤で、ものすごい惑星崩壊シーンの後、プロメシュームのAと、メーテルのBが消滅した。

二作目の「さよなら銀河鉄道999」では、プロメシュームのBと、メーテルのAが対話するが、この絵がものすごい。台詞があるということと、超未来都市の中枢部に、魂の巨大な存在がいるという意味で、次作の「幻魔大戦」の終盤の大決戦の火焔龍の絵柄(台詞ほとんどなしの)の描写(同じ金田伊功が作画担当)を完全に上回っている。

つまり、「銀河鉄道999」では、一作目も二作目もそうなのだが、というか、ずっとそれ以前から(何千年前から? 何万年前から?)そうなのだが、メーテルは魂の半分しかもっていない。

自分は勝手に、プロメシュームはSATAN、メーテルはLUCIFERだと考えている。だから双方が魂の半分しかもっていないというのは、両者が一つになって初めて完全な存在になるからかな、とも考えている。ただ、SATANもLUCIFERも、魂は完全に持っている。半分ではない。

二作目の終盤で、サイレンの魔女に襲われ、ハルマゲドンとしか言いようのない状況になる惑星大アンドロメダで、上空に吸い上げられていく幽霊列車がある。この列車は、機械化人の食料であるエネルギーカプセルの原材料である半殺しなどにして捕虜にした人間を輸送するもの。「命の火を抜き取る工場」という極秘施設があり、それらの人間の「魂=命の火」を強制的に抜き取り(その瞬間、その人間は即死する)、命の火を小さく分割し、カプセルに封じ込め、機械化人の食料となる。これも最高機密。

でも、この幽霊列車は何百両も編成があっておかしくない。全宇宙から知的生命体を半殺しにして捕虜にし、たくさんある幽霊列車で惑星大アンドロメダに連れてきて、食料に加工しないといけない、のだが、1編成しか登場しない。

自分は若い頃に、徳間書店のロマンアルバムとかいう、まあ、アニメの名場面などを写真にとってアルバムにして、関係者のインタビューなどを掲載したもので、いまもあるのかどうか、それを読んだことがある。その本に、惑星大アンドロメダの一つ手前の停車駅である惑星モザイクの、巨大な立体的な操車場のデッサンがあったのだが(ものすごく上手い絵だった)、本編で全く採用されていない。つまり、美術担当としては、幽霊列車がたくさんあるという想定で書いたものの、1編成しかない、という設定に突然決まったのだと思う。

なぜ、幽霊列車は1編成しか存在しないのか? それは、プロメシューム、つまり、SATANの化身だからだ。SATAN=蛇である。幽霊列車がサイレンの魔女に吸い上げられていく時、まさに、その絵柄は蛇である。SATANの化身だから1編成しかありえず、従って、走行している999の後方から幽霊列車が迫って来て「軌道を空けろ、愚か者」と低く太い男性の声で命令してきたのだが、この声こそ、SATANの声(次作では幻魔大王の声)であり、だからこそ銀河超特急の999を「愚か者」と言ったのだ。

メーテルは、機械化母星=惑星メーテルの構造物や部品となる若者たちをだまして拉致してくる工作員である。それが一作目で、メーテルに999の高額なパスをもらって、やっとのことで終着駅惑星メーテルに鉄郎が到着した直後、鉄郎が初めて耳する真相(の一部)。

魂が半分しかないということは、罪悪感や自責の念なども半分しかないということだろうか? 一作目でメーテルはかなり、魅力的な美人に描かれており、鉄郎が恋してしまうのは当然である。こんな美人が目の前の座席にずっと座っているのだ。しかし、メーテルは終始、演技しているのだ。

しかし、それでは、メーテルが悪者かというと、それがそうでもない。拉致担当者であるとともに、その裏で、機械化世界に反対する父の味方になり、機械化母星メーテルを破壊するタイミングを計っていた。鉄郎がこの星に来た時が、まさにこのタイミングだったのだ。ここにきて、母親のプロメシュームをメーテルは裏切る。2作目でもメーテルはプロメシュームを裏切る。

機械帝国の女王プロメシュームという、巨大な存在の母親を裏切る、というのも魂が半分しかない娘だから、案外、できることなのかもしれない。

魂が半分しかないということは、やはり罪の意識が低いのだろう。惑星大アンドロメダの中心にある、プロメシュームの魂(つまり魂の半分)は、この星で人間から「強制的に魂を抜き取り」、食料に加工した魂=命の火を一部くすねて、自分の魂に吸引・吸収、自分の強大な自我で封印・一体化し、プロメシュームの精神体は巨大になったが、まさにこれが悪の中枢であり、サイレンの魔女を引き寄せた。

でも、メーテルはサイレンの魔女の影響を受けない。命の火のカプセルを食べている姿が映っていないので、鉄郎と同じようなものを飲食しているからだと思うが。メーテルに入っている魂は、半分であっても、自分の魂だけだからだ。だから影響を受けない。

999は、機械帝国の回し者だから、サイレンの魔女の影響を受けるのはわかる。アルカディア号はなぜ影響を受けるのか? 中枢大コンピューターには、生前のトチローから「無理やり剥がしてきた魂」が宿っている。だから影響を受ける。クイーン・エメラルダス号が影響を受けるのかどうかの描写がないのは、影響を受けないからだろう。

魂に大小というか、優劣はあるのだろうか。自分は大小や優劣はあると思っている。だから、小・劣な魂は悪事を平気でできるのだろう。だが、大小、優劣ある魂の学びの場が、この地球であり、死ぬと、魂の本体に戻るのではないのだろうか? それはプロメシュームBのような巨大な魂の複合体、集合体なのだろうか? だから自分は、あの絵柄が気になり、気に入っているのだろうか? これが登場する「さよなら銀河鉄道999」は約45年前の作品だが、このプロメシュームの巨大な精神体の姿は、自分がずっと気になっていると同時に、すごく惹かれる存在なのだ。

成仏というのは、魂の集合体=本体に無事、戻ることを言うのではないのだろうか? すると、天国も地獄も煉獄も、宗教者がただ主張しているだけで、本当は存在しないのか?

ここで、自分がなぜか連想するのが宮崎駿のアニメ映画「崖の上のポニョ」なのだ。あれは高潮だか津波だかに飲まれて全員が死亡し、あの世で元気に暮らせばいいじゃないか、早く言えば、そういう内容だと思う。ポニョには小さいたくさんの妹たちがいる。これは、それぞれが巨大な水魚に変身し、ポニョが宗介に会いに行くのを助ける。

ポニョと小さいたくさんの妹たちは、この世界に存在するときは別々の存在だが、生まれる前は一つの存在だったのではないのだろうか? だから皆が似ていて、仲がいい。グランマンマーレの力でそこから分離作業が行われ、ポニョと妹たちが存在を開始したように思える。グランマンマーレが船の下を通ると、船の動力が回復するのは、そうやって命を与えることができるからだ。

さらに、グランマンマーレの質問に宗介が正しく答えると、世界の綻び(ほころび。現実世界と冥界の境目が開いていること)は閉じられ、ポニョ(半分現実世界の存在、半分冥界の存在で、魂が半分しかないのかも。だから時々、カエルのような姿になる)は、人間(魂が1個)になる。

魂が半分しかないということは、やはり、半分現実世界、半分冥界、そういう存在なのだ。罪の意識が希薄にもなるわけだ。あ、だから、わざと、プロメシュームは、自分とメーテルについて、魂を半分に分割し、機械化人と機械化惑星の中心に据えたのだ。罪の意識を希薄化させ、悪事を実行しやすくするために。

ポニョも、魂が半分しかないから、宗介に会いたい気持ちが先走って、このままいくと沢山の人間が冥界に入ってしまう、ということの罪の意識が希薄なのだ。幼いだけかもしれないが。

魂が半分しかないと言えば、村上春樹「海辺のカフカ」を思い出す。魂が半分しかない人物が2人登場する。その2人の、太陽の反対側にできる影、この影の濃さが、普通の人の半分しかない。この場合、残りの半分は損なわれているから、つまり半分はこの世に存在し、半分は冥界に存在する。だから死ぬのだ。

「海辺のカフカ」とは逆に、ポニョは人間になる。そうか、ポニョは、宗介がグランマンマーレの質問に正しく答えたからだ。

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