雨の温州蜜柑姫 桃尻娘 (講談社文庫) 橋本治

LGBT

“青春というものはそこでおわるもの” 全6巻の完結

「桃尻娘シリーズ」の最終、第6巻です。この第6巻では時間が逆行し、第1話で30歳だった醒井涼子は、第5話(308ページ~)以降では20歳のころまで戻ってしまう。そこで木川田君と出会う。それは、傑作だった第5巻の最後の場面の5日前だった。ここでやっと第5巻に直接続いていく物語が始まる。

「「なんかさァ、僕ねェ、あの橋見てると、幸福ってあるのかもしれないなって、そんな風に思うの」それを言う人の声は決して幸福そうでもなく、でもだからといって悲しそうという訳でもなかった。自分の道を選ばざるをえなくて、でももう選んでしまった人の、やるせない哀感というようなものだったのかもしれない。」

醒井涼子と木川田源一の横浜のシーンでこの全6巻の長い物語は終わる。いろいろな部分が未消化のままでわざと残されたまま。醒井と木川田は予定していたコンサートには行かず、チケットを粉々に破いて捨てる。これは未来の選択肢の一部が却下され、別の道が選択されたという意味だろう。

(この文章を修正しながら思ったのだが、自分もこの第6巻を読んでから、約2カ月の間に、自分の、未来の選択肢の一部が却下され、全然違う、別の道が選択されてしまった。)

「それはもう、遠い昔のことになる。醒井凉子は、結婚して高階凉子になる夢を見ていた、になるのかもしれない。ならないのかもしれない。時間はいつだって融通無礙に選択可能で・・・。」

だから破られたコンサートチケットは、醒井の旅券(オックスフォード大学への留学)及び高階との婚姻届、榊原の市議会議員選挙の候補者届などが破かれる=そういう未来は訪れない、という暗示なのかもしれないし、そうでないかもしれない。

そう考えると、コンサートチケットを破いた(=主人公たちの青春時代のおわりを告げるのだと思う)20歳から後の話(1話から4話まで、約300ページを費やしている)を何かオチがあるのかな・・・と思いながら読んだのが、ドラマ性が薄く、それはこの部分が選択可能な一つの未来にすぎず、「なるのかもしれない。ならないかもしれない」と留保しているためで、しかしその割にはあまりにも(架空の未来描写が)長すぎると思うのは、果たして自分だけであろうか?

やはり第5巻が傑作で大きなピークがあったので、第6巻は少し小振りな印象を否めないが、青春大河小説の最終巻で、やはり少し寂しい。話が長いと自分は前述しながらも、もっともっと読みたい気がするのに。

最後に長い作者あとがきがある。

「青春というものはそこでおわるもの、その先は大人の小説の世界だから、青春小説はそこまででいい」

「桃尻娘の六作は、私の一番愛している作品」

「またね」


「またね」が非常に切ない。謹んで作者のご冥福をお祈りいたします。

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