中道あんの謎シリーズは、これで6回目。この女は、いつも自分を楽しませてくれる。
引用は、ESSE-ONLINEから。
「60代ひとり暮らし、「当たり前」を見直して気づいたこと。料理の味つけもお風呂のお湯も“少なめ”で十分だった
成人した3人の子をもち、現在は富山県でひとり暮らしをしている著述家の中道あんさん(60代)。年齢を重ねた今、日々の「当たり前」を見直すなかで気づいた、お風呂の湯量や味つけの心地よい加減。「少なめ」だからこそ満たされる暮らしの工夫をつづります。」 2026/09/02
「富山に引っ越してきて、ちょっと困ったことがありました。お風呂の湯船が、ひとり暮らしには少し大きいのです。夏でもしっかりお湯につかり、手足をマッサージしたり、ぼんやり考えごとをしたりする時間が大好きです。
肩までたっぷりお湯をはってひとりで入り、そのお湯を毎回捨てる。そんなことを何日かくり返すうちに、「こんなに使うのが当たり前だと思っていたけれど、本当に必要?」と思い始めました。
入浴のあと、温かいうちに浴槽や床を洗っておくのですが、たっぷりと残ったお湯が時間をかけて排水口へ流れていくのをながめていると、水道代や電気代、資源の面でも「もったいないなぁ」とプチ罪悪感がわいてくるように。」
いいですか? 「肩までたっぷりお湯をはってひとりで入り、そのお湯を毎回捨てる」、「水道代や電気代、資源の面でも「もったいないなぁ」」と思うのならば、毎回、湯を捨てるのではなく、前日の湯を追い炊きすればよいではありませんか? 1人しか入浴しないのだから、1回で捨てることこそ不経済ではありませんか? それとも、この女の体は、そんなに不潔なのだろうか? 当然、不潔だからこそ、毎回、湯を入れ替えているのは間違いない。もし、この女がきれい好きだから、と言っても、従って、この女が1回入浴した湯は汚いという理解にしかならない。1日で湯舟に雑菌が繁殖したということであれば、最初に入ったこの女の体が不潔なのか、風呂掃除がテキトーで湯舟がもともと雑菌だらけなのか、そのどちらか、あるいは両方であり、2回目はとても入れない、いずれにしても不潔ですね。それなら、毎回、湯を入れ替える必要性があるよねぇ。

それに、「たっぷりと残ったお湯が時間をかけて排水口へ流れていくのをながめている」と書かれているが、排水口へ流れていくお湯が見えるのは、お湯が少なくなってからだ。たっぷりとお湯が残っている状態では、ただ水位が下がっていくだけであり、排水口に流れていくお湯をいくら見ても、何の変化もない。排水口に流れていく、変化のないお湯の状態を、時間をかけてながめていることができるのは、馬鹿だからできる。そうですよね?
「そこで、毎日少しずつ水位を下げて、どこまで満足度が保てるかを実験してみました。
その結果、私の場合、胸の下くらいまであれば、これまでと満足度はほとんど変わらないことがわかりました。むしろ、それくらいの湯量だと長く入っていてものぼせないし、いちばん冷えやすい足はしっかり温まります。
今夜も、湯船のお湯は胸の下くらいまで。足先はしっかり温まって、長く入ってものぼせない。お風呂上がりに背中へ冷たいシャワーをサッと浴びて、シャキン! とするのが私のお気に入りです。」
いいですか? 「湯船のお湯は胸の下くらいまで」、「お風呂上がりに背中へ冷たいシャワーをサッと浴びて、シャキン! とするのが私のお気に入りです。」とあるが、おかしいよな。胸の下って、腹までしか湯に入らないのだろう? 全然、温まらないよな。それで、「お風呂上がりに背中へ冷たいシャワーをサッと浴びて、シャキン! とする」わけがない。冷たくて、飛び上がるよな。それに、この記事は9月のものだが、あのさ、真冬でもそうするってことだよな? だって、「たっぷりのお湯も・・・毎日の暮らしには必要ありませんでした。」と、「毎日の暮らし」と書いているのだからな。真冬にそんなことをしたら、寒くて冷たくて、死にそうだよね。だから、いつものうそ800だとわかる。
「先日、娘と一緒に夕飯を食べることになり、野菜の肉巻きを焼肉風に味つけたものと、つくりおきの夏野菜の焼きびたしを食卓に並べました。ご飯をよそうタイミングで、炊飯器のご飯がお茶碗1膳分しかないことが発覚。」
いいですか? 「ご飯をよそうタイミングで、炊飯器のご飯がお茶碗1膳分しかないことが発覚」とあるが、おかしいよな。2025/06/12の同じ中道あんのエッセー「62歳ひとり暮らしの「リアルな食事」。電子レンジを手放したら体にも財布にも優しい生活に」では、「わが家では、30年ほど前から炊飯器を使わず、お鍋でご飯を炊いています」と書いている。文脈的には、ここは中道あんの自宅である。なぜ、ここに炊飯器があるのだ? なぜ、実際に炊飯器を使っているのだ? やはり、中道あんが、鍋で炊飯しているというのは、うそなのだ。この女は、書いていることがいつも、うそ800なのだよな。
「「あなたが食べて。私はおかずだけでいいわ」と娘にいうと、「こんな濃いおかずにご飯がなくて、食べられる?」と気にかけてくれました。
そこで私が引っかかったのは、「こんな濃いおかず」のひと言。食べる前から濃いと見えているんだなぁ。こってりした味つけを「おいしい」と思い込んでいたけれど、ごはんが中和剤になってやっと食べられる味つけだったのだとしたら、ちょっと悲しい。」
いいですか? 娘と言うものは、以前は中道あんと一緒に暮らしていたものと理解しますよ? すると、「そこで私が引っかかったのは、「こんな濃いおかず」のひと言。食べる前から濃いと見えているんだなぁ。」の「見えている」っておかしいだろ。娘は経験的に、母親の料理の味付けが濃いことを食べて知っているはずであり、「見えている」という書き方はおかしくて、「知っている」と書くべきだ。「見えている」という表現は、この料理を食べたことのない、赤の他人が使う言葉だ。
それから、「ごはんが中和剤になってやっと食べられる味つけだったのだとしたら、ちょっと悲しい」とあるが、全然悲しくなんかない。だって、それがご飯のおかずの役割と言うものですからね。「こんな濃いおかずにご飯がなくて、食べられる?」という、母親のおかず非難を口にする娘にこそ問題があり、娘の育て方を間違えましたねぇ。
「そこから、調味料の「当たり前」も見直すように。煮物は控えめにして野菜はゴマあえやカツオ節あえにしたり、干物にはレモンをしぼり、納豆にはタレの代わりにお酢を使ったり。食卓から卓上しょうゆも下げてみました。」
いいですか? 「調味料の「当たり前」も見直すように。煮物は控えめにして野菜はゴマあえやカツオ節あえにしたり」と言う表現は、日本語になっていない。調味料の見直しだと書いているのだから、煮物自体を控えめにするのではなく、煮物の調味料を工夫するのだろうが、おかしいだろ。それと、ゴマは調味料かもしれないが、カツオ節は基本的に味がなく調味料とは言えず、この場合の調味料はしょうゆであるということが書かれていない。それから、「食卓から卓上しょうゆも下げてみました」はうそだろうね。卓上しょうゆを卓上に置かなくて、どこに置くのさ。不便で仕方がない。考えなくてもわかる。「干物にはレモンをしぼり、納豆にはタレの代わりにお酢を使ったり」というのは、気が向いた時にたまに行うだけであり、いつもは卓上しょうゆや付属のタレを使っているのでは?
しかしですよ。2025/12/20の同じ中道あんのエッセー「60代ひとり暮らしの「5分習慣」6つ。朝食は固定メニュー、散歩時間で体も心も整える」では、「朝ごはんは、・・・メカブと温泉卵をトッピングした納豆が固定メニュー」「メニューを固定にすることで、「なにを食べようかな」と迷うこともなく、さっと準備できるのでラクです」と書いている。メカブと温泉卵をトッピングした納豆は、調味料には何を使うのか? 納豆付属のタレでは不足する。酢なんて、温泉卵には合わないよね。やはり、しょうゆだよな。だから「納豆にはタレの代わりにお酢を使ったり」というのは、うそなのだ。あるいは、2025/12/20のエッセーにある以下の写真の固定メニューとされる「メカブと温泉卵をトッピングした納豆」が、うそなのだ。

それに、別記事にも書いたが、365日どころか、死ぬまで毎日、朝食の「メカブと温泉卵をトッピングした納豆」は、固定メニューなんだよな? 「固定」って、そういうことだよな? 「メカブと温泉卵をトッピングした納豆」なんて、普通、3日で飽きるよな? それが、来る日も来る日も、毎日毎日、死ぬまで続くのよ? 考えられねぇ。しかし、そんな奴、いるわけねぇだろう? うそだから、つい書いちまった、そういうことだよな?
「たっぷりのお湯も、濃い味つけも、毎日の暮らしには必要ありませんでした。「これくらいでいい」ではなく、「私には、この少なめくらいがいい」。そんな自分なりの「ちょうどいい加減」を楽しめるようになったのも、60代ひとり暮らしの醍醐味かもしれません。」
いつものきれいごと。中道あんは、本人の書いている通り、いつも「いい加減」ですよね。日本語も目茶目茶だけど、本当に日本人が書いているのかねぇ。ESSEの読者の知的レベルがよくわかるってものだねぇ。ある意味、感心する。


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