偽善者と、知恵のない者ばかりが出てくる。どーしようもない物語。
主人公タエ子の子供時代に、母親から「作文がちょっとぐらい上手な子より、好き嫌いしないで何でも食べる子のほうがずっとえらいのよ」という小言をもらうが、何を食べて、何を食べないかは個人の完全なる自由である。この愚かな母親の存在理由は何なんだ? 単なる専業主婦=旦那相手の売春婦だろう、えらそうにしやがって。この愚か者が!
それから、小学校で「廊下を走ってはいけない」「給食を残してはいけない」とか、法律違反でないことを、わざわざ学級内で取り締まろうとする学級会があるが、自分は、やはりこいつらはバカだと思うし、この国自体がおかしいと思う。日本なんて、地球なんて、太陽系なんて消えてしまえ!
法律違反ではないものは、すべて自由でいいのだ。当然だろう? ついでに言えば、結婚するかどうかも、個人の勝手だろう? 高畑勲は、かなりバイアスのかかった主義主張を、この作品で行ってくるが、観客に説教したいのだろうか? 1991年の劇場公開作品。
という感じで、文春ジブリ コミック文庫「おもひでぽろぽろ」を読み始めたが、何だこれは? 絵の解像度が悪いと言うか、白が飛んでおり、絵がはっきりしなくて、肝心の日常生活の表情が良く見えない。
男鹿和夫の背景画の解像度も低い。
これ、太く黒い線で全部の画面を囲っているが、特に、過去の部分は、男鹿和夫の空白を生かした絵作りをしている=記憶の空白という意味なのだろうか。それが黒く太い線で囲われているので、台無しになっている。絵柄よりも、枠線の方が目立つ。同じ高畑勲監督の「ホーホケキョ となりの山田くん」も空白を生かした絵作りをしているが、黒い枠線は山田くんの方が細い。どうしてこういう落差があるのだ?
あと、現代の話は黒い枠線の角が四角いが、過去の話は角が丸くなっていて、それがうざったい。目障りだわ、その分情報量が減るわで、丸くするな。映画館だって、過去だろうが現在だろうが、画面の角は四角いだろう? それから、現実世界の幻想シーンも枠線の角を丸くしている。さらに、大人タエ子の世界に、子ども世界のタエ子が入りまじってくるが、外枠の角はここは四角いな。終盤、電車で東京に戻ろうとするときに、また山形へ戻る描写も、子ども世界のタエ子たちが入りまじってくるが、外枠の角がここも四角いな。幻想なのだから、ここも角は丸くしないとおかしい。枠線の角を丸くする、四角くするの原理原則がいい加減だ。だから全部四角でいいのだよ、これ文芸春秋のバカが編集しているよな?
男子児童は、だいたい男子そのものになっているが、女子児童は狡猾で、意地が悪く、可愛さがない。
大人タエ子の行動原理も意味不明であり、何かから逃げている八方美人である。
高畑勲は女性に悪意を持っている? というか、この作品で、観客を説教したいって感じ? 自分はそれに反発を覚えているのかも。
ただし、生理の話は、DVDで観ていたので知っていたが、今読んでも爆笑ものだ。これで学校教育における性教育が、一歩か二歩進むきっかけになったと思う。いいんじゃない?
男子のスカートめくり、スカートのぞきという描写があるが、これ見せたいからスカートを履く、だから見ていい。女のパンツなんか見てもたいしたことないけど。いやならズボンを履け。ただそれだけだ。スカートのぞき、そしてパンツの上からおマ〇コの臭いをかぐというのは、案外、男性教師がやりたいことなのではないのか? 絶対、勃起すると思うよ。
そこで、序盤から過去の物語が、生理のレヴェルまで来たから、あと、この物語は下がる一方なのだよね。大人タエ子が山形に到着したが、別にどうでもいい内容が続く。
それで全般的に山形の自然が、宮崎駿監督「となりのトトロ」レヴェルで風光明媚に描かれているという大問題がある。子供にはそう見えても、大人にそう見えるのはおかしいでしょ。美術監督は「となりのトトロ」と同じ男鹿和夫。
過去の物語は、次に面白いのは、分数の割り算だ。しばらく間があるなぁ。とにかく、ほとんど事件らしいことは何も起こらない、という点では、「ホーホケキョ となりの山田くん」と同じだ。しかし、「となりの山田くん」の祖母・しげクラスの人物が、この作品にはいない。男女全員あわせても、しげにはかなわない。小粒ばっかり。このクサレ家族=岡島タエ子一家にはあきあきする。父は稼ぎがあるだけの封建的な無能であり、他は女ばっかりで、誰にも本当の知恵がない。高畑は、馬鹿ばかりよく集めたもんだ。
そして、高畑は、どうしても結婚の話に持って行く。この物語は、結局のところ、女はすべて、農家の嫁になれ、と言っている。なぜだ???
「仕事をする女性が増えているから、結婚しない女性が増えている」という大人タエ子の主張があるが、これ、小柳ルミ子と同じで、当時、小柳は独身で、「なぜルミ子さんは結婚しないんですか?」という質問がTV出演の時にあって「仕事をしていて、食べていけるから、結婚する必要がない」とかって回答していたような気がするので、タエ子と同じだ。それでもって、オオスミケンヤというヒモと結婚して、その後、離婚した。いい勉強になったんじゃない? 男を見る目がない女は、やはり結婚しないほうが正解だよねぇ。
そうなんだよね。高畑勲の作品に出てくる女子や、女性で未婚の存在は、口うるさかったり、陰険だったりするのは、性欲のはけ口がないからじゃないのか? 下の口が口寂しいから、上の口がうるさくなるのよ。本当はやりまくればいいのよ。
ここでおかしな主張「分数の割り算がすんなり出来た人は、その後の人生もすんなり行くらしいのよ」って、自分は分数の割り算は一発でできたけど、その後の人生はメタメタだったのだがね。
これ、1/4で割るということは、0.25で割るということだから、割ると数が増えるのだよね。少数で説明すれば早いのに。
約10日間、タエ子が農作業して、義理の兄の親類の家で食事を出してもらう。ただ飯を食ってそれで済むわけがないからこその、トシオの嫁になれであり、下心があるからこその歓待ぶりなのだと、気付かないのはタエ子がバカだからだ。あらかじめ予想して、反撃方法を考えておかないとね。反撃せず、外に逃げるというのはバカ丸出しで笑える。例え処女でも、「私、ヤリ〇ンだから、遠慮します」って答えれば面白いのに。それか、「私のおマ〇コは有料だ。使用料はめっちゃ高いぞ、1回100万円だ。必ず現金で前払いだよ?」と言うとか。
子どもタエ子の学芸会で、飛んでいくカラスに手を振り、それを見つめる間合いは、きちんと表現されている。ここは重要。
それから、その後の、夕焼けの商店街の背景画がまた上手いのだ。
つまり、この物語は、結婚=性=生を主張しておきながら、対立概念の死から眼を背けているという大きな問題がある。たとえば、仏壇に線香をあげるとか、墓参りにくっついていくとか、入院患者の見舞いにいくとか、そういうシーンが全然ない。片手落ちだ。何度も書くが、生を作ること=死を作ること、に他ならない。セットだ。
山形がどれだけ気に入ったのか、東京よりどのくらい好きなのか、とことんばあさんが聞いてくるのだから、気が付けよと思うのだが、大人タエ子はバカだから。
というか、タエ子を農家の嫁に迎える、どうしてもそういう物語にしたい、という監督の意志があるのはわかるのだが、そういう話にして面白いのか? という根本的な疑問がある。女は、子供を産む機械だ、って誰かが言っていた。そのために利用される。トシオを勧めてくるのならば、データ、情報がないとね。って、トシオは東京の若い女だったら誰でもいいと思うんだよね。おマ〇コ遊びが目的なのさ。周囲も、おマ〇コ遊びをさせ、繁殖したいだけだ。
それで、この後、物語はグジグジして前に進まなくなる。大人タエ子は、自分の行動が、農家における、偽善活動だったかどうかで悩むのだが、アホくさい。敵のワナにかかっただけであり、このままだと山形に拉致され、子種を植え付けられ、繁殖の手伝いをさせられるのだから、まず山形駅前までなんとかして脱出し、駅前のホテルに泊まり、翌朝、さっさと東京に帰ればよろしい。
ナナコの夫の親類の人間は、隠していたが、偽善者であり、田舎に都会の女性を嫁として拉致しようと言う工作員であり、デリカシーとは無縁のクズだ。この作品、出てくる大人が全員、偽善者なのね。笑える。
それに、この作品、肥料の臭い、というのが表現できていない。農家の臭いというのか。とても偽善的よ?
一番すごいのは、初めて歌詞を知った都はるみの歌う主題歌「愛は花、君はその種子」だった。「魂を 切り裂く 愛 それはナイフ」って、この映画本編の内容を完全に上回っているぞ。



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