榊原と醒井の、女の対決が、この巻のピーク。女ってすげえ!
これは、「桃尻娘シリーズ」全6巻のうち、3巻目です。主人公、榊原玲奈は、1年間の浪人生活を終え、ついに、大学入学しました。
そもそも、この作品は、普通の書き方をしていなくて、会話とモノローグのみ、この2つのみで成立しているすごい作品です。全6巻のうち、3巻まではこの形式で進みます。つまり、状況説明というものが一切なく、容赦なく文学的に進行します。
榊原の大学入学前の高校のクラス会の後、醒井(さめがい)を、会わないでいた間、何があったのか榊原が鋭く追及し始めると、(それまで内容的にはダレていたのが)俄然、面白くなる、って言っていいのかな? よくよく考えると、何やら複数の人権侵害っぽいことが行われているような気がするが、あくまでも読者としては盛り上がりを楽しめる。榊原の追及はなかなか鋭く、この女はこうでなくてはならないが、相手の醒井も女の本性を現しており、一筋縄ではいかない。この女の対決は、三巻目のピークだと思いますよ。
榊原が一浪してようやく大学に入学すると、早速、モノローグで大学批判が始まる。自分にも同じような経験があるが、これはフツーですね。
だって、大学の授業なんて、旧態依然でしょう。予備校の方が、100倍マシな教え方をしているのではないのか? 予備校で、引き続き、大学の授業もやってくれたら、大学に行くよりも、もっと効率的に、授業内容が身に付くのではないのか? 一般教養課程とかいう、高校生みたいな授業の、多分、それを教えるしか能のない大学教授を食わせるためだけの授業を始め、大学教授の授業に向ける姿勢、講義の項目、つまり文部科学省の方針、これらが総合的に、日本の国力を下げている大きな要因ではないのか、と自分は疑っているのです。

でも、教授たちにはその自覚がない、自分を有識者だ、偉いのだ、そう思っているからです。例えば、鈴木先生を「鈴木さん」と学生が呼んだら鈴木先生は怒りますよね? 自分を偉いと思い込んでいるからです。先生というものは、「先生」と呼ばないと怒る人のことを、先生と呼ぶのです。万年、同じような授業をしていて、有識者も、偉いも、ありますか?
大学教授だけでなく、国会議員などの議員、弁護士、医者など、「先生」と呼ばれて当然であると思っている人間ほど、人間修養、つまり修行が足りないと思うのです。特に、教育現場で働く人間が、その程度の人間性しか持ち合わせていないのであれば、学生に与える悪影響は計り知れない。
「だってサ、別に、大学の講義になんて、期待することなんかなんにもないでしょ? そのことだけは明らかだったと思うのよね。だって、本読めば分ることやるのが大学の講義なんだからサ。」
「講義に出て居眠りしてる子もバカだけど、講義に出て居眠りしないでいられる子もバカだと思う。」
ここだけでなく、「バカ」という言葉が頻出するのだが、これは文学的にどうなのだろう? バカにも、いろいろあると思うのだが。あえて、作者が「バカ」一本で通すのは、そういう表現能力しかない人物である、つまり、一般的には大学生は高学歴とはいうものの、実は単なるバカにすぎない、作者の主張はそういうことかな?
このシリーズは、(この3巻までは)1つ1つの事象に対して、各自の物事の見方、それも必然的に偏りがあると思われる各自の見方が次々に表明されていくので、結果として真実(らしきもの)に近づいては行くものの、同時に歪みが生じて消えることがなく、本当のところはどうなのかと、読者が想像するしかない部分が多々あり、それが「桃尻娘」シリーズにおける、一つの主要な文学性を形成しているのだと思います。


コメント