全国一般的(月遅れ盆):2026年8月13日(木)〜8月16日(日)
今日は、御布施を持参して、迎え盆の墓参り。「塔婆を受け取る」と自分は日記に書いておきながら、御布施をお寺の、現在の若い住職に渡した時に、何も言われなかったし、案内板も何もないので、塔婆を受け取るのを忘れた。カネは2カ月前の6月に支払っているが、もともと控えも何もないし、塔婆が置いてある本堂も扉が少しだけ開いている状態で、雨模様なのに電気も点いていないので、どうしても、声をかけられないと忘れてしまう。自分の前に2人、御布施を渡している人たちがいたが、いずれにも、塔婆を受け取るように、という声かけを住職がしていない。
先代の住職の時にはこのようなことはなかったが、この若い住職に変わってから、墓地の道が雑草だらけになっている。途中の駅のあたりまで帰ってきたところで、塔婆を受け取っていないことに気付き、またお寺に引き返した。
そもそも、御布施を渡した時、自分の後ろには誰もいなかったので、住職(若いが、ものすごく太っている男性)は自分へ、前の2人よりも長く、お盆のお飾りについて自分に説明してきた。いつも思うのだが、この若い住職は、なぜか、自分に対して競争心のようなものを持っており、さらに、暗記してきた知識を、思い出しながらただ話しているだけであり、経験というか試練というか、そういうものを経ていないので、「Aというものは・・・というものであり、そうしてください」、そういう口調であり、聞いていて空虚感がある。
先代の住職は、もっと立派な人で、人に説明する時も、この若い住職とは何かが違う。自分は母が亡くなるまで、先代の住職がどういう人が知らなかったし、弟なども知らなかったのだが、自分はすぐ、この人はお寺の人だと見抜いて、お寺の庭先で、御布施を渡したことがある。服装は普通だった。
「あなたは?」「〇〇です」「ああ、〇〇さんの息子さん? それはそれは」
しげしげと、自分の頭の上から足元まで見られて、何か、しきりに感心された。その後、弟からは「知らない人にお金を渡しちゃだめじゃないか」と怒られたのだが、後日判明するが、その人こそが、当時の住職であり、立派な人だった。
先代の住職と、現在の若い住職とは、雲泥の差がある。今日、塔婆の受け取りを忘れた家庭は、うちだけではないはずだ。だって、自分たちが最初、お寺に行った時、結構、駐車場に自動車が停まっていたが、墓地で塔婆を持っている人はほとんどいなかった。だから、塔婆を受け取る日であることに、全然気づかなかったのだ。
というのは余談だが、このお盆の墓参りは、弟の自動車で行ったのだが、道中、結構危ない運転をしている自動車がある。普段、自動車をあまり運転しない人が、お盆休みの期間中に運転しているのだろう。いつもは運転しない人が運転している。だから、危ない運転が目立つのだろう。
そこで思うのだが、ベストセラーの文芸本などがよく話題になるが、こういう本は、買ってそれだけで満足して、実際は読んでいない人も多いだろうが、まぁ、きちんと読んでいる人も多いだろうが、だからといって、内容的に優れているとは、必ずしも言えないのだろう、そう思う。だって、普段は本なんか読まない大勢の人が、この本を買って読んだりしたからこそ、ベストセラーになったのであり、そういう人間(=本来的に、本の良し悪しがわからない人間)が読んだからといって、内容が優れているという保証には決してならない。普段から本を読んでいる人でないと、その本が優れているかどうかはわからない。
だから、その商品が大量に売れた=それは優れた商品である、とは決して言えない。
話は少し変わるが、1990年代は、邦楽のCDがやけに売れた時期だ。シングルでもアルバムでも、ミリオンセラー、つまり100万枚突破という話をよく聞いた。が、そのうちの数曲を聞いても、自分には、当時はほとんど何も感じなかったし、今も数曲聞いても何も感じない。自分はよく中森明菜を全盛期の頃から聴いていたので、つまり、細川たかし、天童よしみクラスの歌唱力で、歌謡曲を歌う、というのを聴いていたので、1990年代の邦楽は、明らかにレヴェルダウンしている。まぁ、中森明菜と方向性を変えて来た、明菜に飽きてきたというのはわかる。
中森明菜が重低音重視、高音のビブラートがあるが声質は低音、だからこそ小室哲哉が出てきて、高音のサビが長々と続く歌が大ヒットしたのは分かる気がする。
ネット情報。MUSIC GENERATIONより引用。
「1990年代は、日本の音楽産業が歴史上最も巨大化した「CDバブル」の時代です。ミリオンセラー(100万枚以上の売上)が毎週のように生まれ、音楽番組やトレンディドラマの主題歌、CMタイアップが巨大なヒットの絶対的な方程式となりました。この時代を象徴するのが小室哲哉による「TKプロデュース」です。TRF、globe、安室奈美恵、華原朋美らが放つ、最先端のダンスミュージックとキャッチーなメロディを融合させた楽曲は、カラオケブームとも相まって社会現象となり、日本のポップス市場を席巻しました。
「J-POP」という言葉が定着したのもこの時代です。B’z、ZARD、WANDS、大黒摩季など、ビーイング所属のアーティストたちがチャートを独占する「ビーイングブーム」が起きました。
90年代の終盤には、宇多田ヒカルのデビュー作『Automatic/time will tell』が日本の音楽シーンに決定的なパラダイムシフトをもたらしました。本格的なR&Bのグルーヴ感と日本語の響きを完璧に融合させた彼女の音楽は、それまでのJ-POPの常識を根底から覆し、アルバム『First Love』は日本国内で800万枚以上という前人未到のセールスを記録しました。」(引用ここまで)
自分は他の人間たちと感覚が違うのか、このネット情報に出てくる上記の歌手たちに、当時からほとんど興味がない。新劇場版のヱヴァンゲリヲンは4作とも好きで全部観ているが、その主題歌に全部、宇多田ヒカルが起用されているが、自分にとっては「だから何?」なんだよなぁ。
あれなのよ。1990年代にカラオケボックスが一気に普及したことによって、酒の入ったサラリーマンだけでなく、子供、生徒、(一部、酒の入った)学生なども歌うようになって、どうなったかというと、歌詞が幼稚になった、あるいは無意味になった。一方、音程は意味もなく、複雑に難しくなった、ビブラートはほとんど使わなくなった。そういう歌に変貌した。
自分が「歌」というものについて、他人と一番違うと自覚するのは、自分が歌詞重視であり、その歌詞を歌えてこそ、と思うのだが、どうも一般にはメロディー重視と思われる。幼稚な歌詞、無意味な歌詞、これを自分の口から発声することは、自分は100%拒否する姿勢は、以前から変わらない。
ついでに言えば、一時流行したパラパラも、自分は幼稚で無意味だと感じるから、隣の人がパラパラを踊っても、自分は絶対に拒否して踊らない。つまり、歌わないで踊るだけ、ということに意味を感じない。ということは今のグループ歌手にも当てはまるし(実際、ほとんどのグループ歌手は口パクでごまかし、ただ踊っているだけだろう? パラパラと同じレヴェルだ。)、このことは、盆踊りにも当てはまり、拒否感が出てくる。
とりわけ、1990年代の音楽が、ミリオンセラーになるということが信じられない。日本人は、当時から、何かに乗せられている、のではないのだろうか? だから「本来的に、わからない人間」が大量に存在し、大量に購入するから、ベストセラーになるのだろう。だから、実際の品質は、果たしてどうなのか? 推して知るべし、ということですね。
余談だが、以前の職場で、「天童よしみって歌が上手いですよね」「のど飴なめてるからね」という会話を聞いたことがあるが、「歌が上手くなるのど飴」があったら、人気が出るでしょうね。


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