普通の少女の姉妹を描いたつもりが、表向きは一般人を装っているだけで、本質はESPの物語
母親の長期的な入院という過酷な家庭環境にありながら、不自然に明るい姉妹は、「となりのトトロ」の原型とも評される高畑勲監督「パンダコパンダ」を想起させますが、後半、取り繕っていた姿が剥がれ、姉妹それぞれに泣くシーンがあって安心しました。
この姉妹は、母親不在で寂しく、自然界の精霊が助けてくれるのもわかります。
終盤で、メイがトウモロコシを母親に届けようとするシーンが蛇足だ、という記述をしている何かの評論家の新書を読んだことがあり、その無理解に驚いたことがあります。
精霊たちの登場のあるなしにかかわらず、母親を想う純粋な姉妹を描いた名作だと思います。
と、ここまでは、一応、褒めておいて・・・。
宮崎駿監督は、「ルパン三世 カリオストロの城」(クラリス=王女)、「風の谷のナウシカ」(ナウシカ=王女)、「天空の城ラピュタ」(シータ=王女)とお姫様路線で走って来たが、周囲から「お前が作る話は、いつもお姫様の物語だな」と言われているのが目に見えるようだ。そこで、宮崎監督が、今度こそはと普通の少女の姉妹を描いたつもりが、表向きは一般人を装っているだけで、本質はESP(エスパー)の物語だ。
宮崎駿監督「となりのトトロ」は、1988年公開で、高畑勲監督「火垂るの墓」と同時上映である。高畑勲が普通の人間である戦災孤児の兄妹の悲劇を描いたのだから、宮崎駿も普通の人間を描く必要があったにもかかわらず、描いたのは、一般人を装ったESP姉妹の物語であり、これが宮崎駿の限界なのだ。一般人には、一般人の幼い姉妹の物語に見えるのだろうが、ESPである自分には、ほかならぬESPの物語だとわかってしまう。これが宮崎駿の限界なのだ。
その証拠に、「となりのトトロ」のさつきとメイの2人だけには、トトロも、ネコバスも、ススワタリも見える。カンタを始め、さつきの同級生には全然見えないのに、この姉妹には見える。その上、この姉妹はネコバスにも乗れる。表向き、一般人として姉妹を宮崎駿が描いているから、また風景描写も男鹿和夫の田舎の背景画が非常に上手いので、視聴者はコロリと騙されて、宮崎アニメには珍しい、親しみやすい一般人の物語だと思ってしまうが、本質は違う、ESPの物語だ。一般人を装っているだけの、特殊仕様なのだ。
宮崎駿はいつもそうなのだ。で、その特殊仕様のために、主人公たる本人たちが悩むのか、といえばほとんど悩まない。「となりのトトロ」の主人公さつきとメイにしたって、状況は悩ましいところはあるのだが、本人が本人そのものの特殊性、つまりESPであることそのものについて、疑問を感じたり、悩んだり、という描写は特段ない(メイは幼いから、ともかくとして)。そういう意味では、宮崎アニメというのは哲学的ではないし、自分のように、自分自身がESPなどであることについて悩んでいる人間には、ほとんど参考にならない物語なのだ。
宮崎アニメは、だから簡単に言えば、限界がある、底が浅い、というか、あえて一番難しい問題からは目をそらしているのが見え見えというか。それは、宮崎駿監督の問題そのものだから、本人が目をそらしているのだ。つまり、そういうレヴェルのアニメしか作れないのだ。なのに客が入り、DVD、BDが売れ、米国アカデミー賞も受賞する。評価が高すぎる気がするのだが。「もののけ姫」以降、謎は多くなってくるが、そこまで高評価するほどのアニメかねぇ。
(以下は自分の深読みだが、宮崎駿がそこまで意識して製作しているのかどうかは、わからない)
自分は、さつきとメイが、ESPであるならば、まず引越してくる前の、多分、東京の街で何かやらかしている、そういう気がする。だからそこにいられなくなって、母の病気(多分、結核)のために空気のいいところ、病院からはまだずっと遠いが、そういう場所に、引っ越してくるしかなかったのでは。
過酷な家庭環境にありながら、引っ越しの当日から不自然に明るい姉妹は、とにかく、引っ越し先の家の庭先の、当時ありきたりな自然を見て、大袈裟にはしゃぐ。これは、ESPを隠さなければいけない、そういう隠し事があるからこその躁状態なのだと思う。
さらに、ESPであるならば、国からの監視対象になっているはずだと考える。とすると、監視者は誰なのか、それは父かもしれないし、隣の親切なおばあさん一家かもしれない。
次作の「魔女の宅急便」では、グーチョキパン店という、キキにとって都合のいい、というか、都合がよすぎる、パン屋の別棟でお世話になるが、これもおかしい。あんなに、本来、見ず知らずの他人に対して親切にしてくれる人なんておかしいのだから、自分にはグーチョキパン店は、100%、工作員にしか見えない。つまり、キキの世話をするふりをして、国が魔女(=ESP)を監視するわけ。当然でしょ? 「となりのトトロ」の隣のおばあさん一家も、同じだと、自分は思うのですよね。
「となりのトトロ」は、基本的に「いい人」しか出てきませんよね。監視者はそのいい人に紛れ込んでいる。だって、監視者が見た目、悪い人物だったら、目立ってしかたがないでしょ。
メイが、隣のおばあさんの畑で採れたトウモロコシを、お母さんにあげると言って、強情をはり、とうとう、七国山病院へ向かって走って行ってしまいますが、なぜ、そういう行動をとるかわかりますか? 公開から随分年数が経過しているので書いてもいいと思いますが、これはあの畑で、おばあさんが「(メイのお母さんの病気は)ばあちゃんの畑のものを食べたら、すぐ治っちゃうかも」と言ったからです。そう、メイにとっては、このトウモロコシは「薬」なのです。
でも、そのために、メイは行方不明になったのですから、おばあさんの責任、つまり、こういう発言をした年寄りの責任+監視者としての責任からして、責任重大です。懲罰は必至です。だから、あんなにオロオロするのだ、自分にはそう見えます。
それから、メイを探しに、さつきを乗せたネコバスが走るところで、森の中に入ってから以降は、人影が一切ない。森に入るまでは人の間をすりぬけて走ってきたのに、人影自体が全くない。家はあるのだが。つまり、これは人を描くことができない、もっと言うと人の表情を描くことができない、つまり、冥界を走っているのです。メイは冥界に紛れ込んでしまった。だから人間たちがどこを探しても、見つからないわけです。つまり、「千と千尋の神隠し」もそうだけど、少女が、親を救おうとすると、冥界に入ってしまう=神隠し。なぜ、メイが、冥界に入ったのか、それこそESPだからでしょうね。
あるいは、メイが冥界に紛れ込んでしまったのは、氏名のせいかもしれない。「草壁メイ」→ 文字変換(変換の過程は、都合により掲載できない。知ると、知った人が大変なことになります)→ 「ウゲ 冥界だ」になる。この自分のある能力とほぼ同等の力を持った人間が、宮崎駿の周囲にいる。だから、この作品から、急速に、宮崎駿監督作品の評価が高まっていったのだ。なるほど。

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