劇場アニメ「ホーホケキョ となりの山田くん」 [DVD] 高畑勲 と 量子力学

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時代を先取りした、先進的な表現が生きた名品

この作品は映画館で観ました。背景美術などの表現がものすごく省略されており、それが映画館の大画面での視聴でしたので、その斬新な表現に驚愕しました。

スタジオジブリとしては、1997年に宮崎駿監督「もののけ姫」の公開後、1999年に高畑勲監督「ホーホケキョ となりの山田くん」を公開したのであり、その映像表現のものすごい落差は、一種の事件だったのではないかと推察します。人物も背景の美術画もとことん描きこむ宮崎監督と、今作で、それらをとことん省略する高畑監督。もう2枚看板ですから、どちらがすごいとかは言えないのですが、高畑監督のとった、この大胆な省略の技法は、あれから20年以上経過した今から考えても、ものすごく現代的な表現であったと思います。

ネット情報によると、平成期のスタジオジブリ制作作品としては最も興行収入が低い作品となっているようですが、真に現代的な作品というものは、当初はそういう扱いを受けるものです。それに、海外では高い評価を受けており、スタジオジブリ作品としては、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品として、唯一選定されているそうです。やはり、見る人が見ると、そうなるのですね。

でもまあ、この省略の技法ですが、考えてみますと、普段の日常生活をしているうえで、自分の身の回り数メートル以外はあまり認識されない感じはあるので、日常の生活感を際立たせるために、あえて描かない手法を採ったのだと思いますが、大胆な手法です。原作のいしいひさいち氏の4コマ漫画の、いい感じの力の抜け具合をも表現しているように思います。

そして、自分はこの省略の技法の表現を、量子力学的な表現だと思うのです。

「実際に電子がどこか1点に存在していて、それを我々がわからないのではなく、本質的にいろいろな可能性が広がっているので・・・あくまで、位置を観測するまでは、本当はどの位置にあったのか、といった確定的なことは考えないのです」(ヨビノリたくみ「難しい数式はまったくわかりませんが、量子力学を教えてください!」P.87より抜粋)

つまり、量子力学では、位置を観測するまでは、確定的なことは考えず、本質的にいろいろな可能性が広がっている。つまり、この作品の絵柄で大胆に省略されている余白には、単に何もないのではなく、(ただ位置を観測されていないだけで)いろいろな可能性が広がっている、だからこそ、それを描くことはできない、そう解釈できないでしょうか? この作品の絵柄を見ると、そうとしか思えない。だとしたら、ものすごく現代的な表現ですよ、これは。

そして、さらに思うのですが、量子力学では「観測が結果に影響を与える」(ヨビノリたくみの同著P.93より抜粋)、つまり、電子は観測すると粒子になり、観測しないと波になる性質があるようです。何が言いたいかというと、位置をいちいち観測しない場合は、いろいろな可能性が広がっているというのは、我々の現実世界にも言えるのではないのか? この観測とは、目で見ることだけでなく、カメラで監視・撮影する、撮影した情報を残す、どれも観測になるそうです。だから、それを全部やめた場合は、もしかしたら、この「現実世界」というものは、「ホーホケキョ となりの山田くん」のような世界であるという正体を現すのではないのだろうか、とちょっと夢想したりするのです。

人物も輪郭をはっきり描かないというのは、漫画っぽく、リアルで好きです。輪郭線が途切れているために、彩色するための手間が大変だったと聞いています。

原作よりも、父親の存在感が低下し、おばあさんの存在感と活躍度合いが増しており、あっぱれですが、これは現代の高齢化社会を先取りした表現にも見えます。

あと、この作品は、ところどころ、有名な俳句が流れますね。自分は原作のいしいひさいち氏の4コマ漫画(今、全11巻で販売されています)を読み進めて感じましたが、「となりの山田くん」のこの4コマ漫画こそ、内容がとうとう、名川柳のようなものに昇華しているのだろうと思います。絵柄と会話に、無駄がなく、簡潔で、覚えやすく、かつ、面白い。自分は、アニメ映画の中に俳句が出てくることに最初は違和感があったのですが、その表現はある意味正しくて、原作漫画を高畑勲監督が、かなりよく理解していた、その現れなのだと思います。

時代を先取りした、先進的な表現が生きた名品だと思います。

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