りんたろうと宮崎駿

ESP

宮崎駿「天空の城ラピュタ」は、りんたろう「幻魔大戦」を意識している。

1979年は、2つのアニメ映画の名作が劇場公開されている。りんたろう監督「銀河鉄道999」(配給収入16億5000万円で、この年の邦画配給収入第1位)と宮崎駿監督「ルパン三世 カリオストロの城」(配給収入3億500万円)で、配給収入にかなりの開きがある。

しかし、少し後、角川に移ったりんたろう監督は、角川アニメ第1弾の1983年「幻魔大戦」はまあまあだが、作画は1981年「さよなら銀河鉄道999」の方が上だと思うし、興行成績もまあまあだし、その後の「カムイの剣」「火の鳥 鳳凰編」「迷宮物語」、その後の「X」は、BDはおろか、DVDすら存在しない。かろうじて「メトロポリス」のBDが存在するくらい。

一方、宮崎駿監督は、1984年「風の谷のナウシカ」でブレイクし、そのあとずっとヒット作、良作を発表し、米国アカデミー賞も2回も受賞している。すべてがBD化されているのでは?
この落差は何なのか?

宮崎駿は基本、自分で物語(あるいは原作)を作り、脚本も作り、絵コンテも作れるし、絵も描けるし、原画修正もできる。りんたろうは、絵コンテは作れる、動画も描けるようだが、他はどうだろうか? だから、りんたろうは、最初の「銀河鉄道999」と「カムイの剣」を除いて、脚本が弱いし、その上、何と言うか、ターゲット層が見えないのだよな。「銀河鉄道999」から「幻魔大戦」まではSF、つまり少年から若い男性向けだったのが、次が「カムイの剣」で、江戸から明治へ向かう時代の忍者の物語で誰向け? の作品で、さらに、その次が奈良時代の「火の鳥 鳳凰編」で、これも誰向けよ? の作品だ。次の「迷宮物語」は、またSFに戻るのだが、肝心の脚本があるような無いような微妙な小品3作で、絵は上手いが、内容が弱い。作画はどんどん上手くなってはいくのだが、脚本がほぼ一貫して弱い。なぜ、その脚本で映画化したのか、映画化できるのかが、わからない。

そもそも、りんたろうは宇宙モノでヒットしたのだから、また宇宙モノに戻ればいいじゃん。ガンダムだって、マクロスだって、どんどん続編を作っているわけだし、宇宙モノだってありでしょ? それこそ、宮崎駿が作らないジャンルじゃないか? 何か、わざわざ、りんたろうを潰すために、角川が招聘(しょうへい)したようにも見えるんだよなぁ。

宮崎駿は、もっと自分で研究し、創作し、制作に深くかかわっている。能力と努力の差なのだろうか?

宮崎駿「天空の城ラピュタ」で明白だが、この作品はりんたろう「幻魔大戦」を意識しており、結果、配給収入は及ばないものの、宮崎駿は、りんたろうに、内容的には勝利している。1986年の「天空の城ラピュタ」(配給収入5億8300万円)は、冒頭、スパイに拉致され、海賊に襲撃されたシータが、飛行中の飛行船の外壁に逃げ、そこから足を滑らせて、遥か下方に落下する。その途中で飛行石のパワーが作動し、炭鉱で残業していたパズーに抱き留められる。

このシーンで、りんたろう監督の1983年「幻魔大戦」(配給収入10億6000万円)の敗北が決まった。この作品は、ルナ王女が乗っているジャンボジェットに隕石が落下・衝突し、ジャンボは爆発・空中分解、ルナは大西洋に落下するが、途中で、アストラルボディ(意識体)が360億光年彼方の宇宙空間に招聘(しょうへい)されるが、地球に意識は戻り、無事に海面のジャンボジェットの残骸に降り立つのだが、りんたろうは、そもそも、大画面一杯に、右から左へ飛行する一機のジャンボジェットを正しく描けてはいない。さらに、ジャンボジェットの爆発・空中分解も、きちんと描くことはできていない。さらに、どうやってルナの落下スピードが減速したのか、どうやってルナが、夜の真っ暗な海面に浮かぶジャンボの残骸に降り立ったのか、その場面を一切、描けていない。それに、その美しい海面から朝日が昇って音楽が高鳴るが、切断され焼けただれた人間の破片がたくさん海面に浮かんでいる、阿鼻叫喚の画面が本当ではないのか? この一連のシーンで、宮崎駿との力量の差が一気にわかる。

加えて、「天空の城ラピュタ」が存在する低気圧の中心に入ると、雲で真っ暗になり、稲妻の龍が飛び交う。これは、「幻魔大戦」の終盤の火焔龍に対抗した表現であり、作画は同じ、金田伊功が描いている。宮崎駿が、りんたろうを意識しているのは明らかだ。この場面の勝負は互角かな。

美術が、りんたろう「幻魔大戦」でニューヨークの地震と洪水の上手い美術画とか、「カムイの剣」で多分、アメリカ大陸の美術画を描いているのが男鹿和雄のはずだが、彼が注目された最初は、これらの作品ではなく、宮崎駿「となりのトトロ」の背景画だった。ここから彼はジブリで活躍していく。

金田伊功も、「風の谷のナウシカ」以降は、ジブリ作品の常連になっている。

つまり、りんたろう側にいた、能力のある人達が、宮崎駿にヘッドハンティングされたわけだ。宮崎駿は能力を見極める目を持っている。特に、男鹿和雄には、今まで誰も描いたことのないレヴェルでの背景画を要求し、描かせてしまった。男鹿和雄が、美術監督の名手である椋尾篁の下で描いていた角川時代とはえらい落差があり、男鹿和雄の本来の能力を、宮崎駿が開花させたのだ。

それから、音楽担当が、りんたろうは基本的に毎回違う人だけど、宮崎駿は基本(カリオストロを除けば)、久石譲でしょ。「宇宙戦艦ヤマト」も旧作シリーズは、ほとんど全部が宮川泰だった。この作曲家を固定するシステム、っていうのはヒット作作りに置いて、有効なのかもしれない。

話は変わるけど、りんたろう監督「さよなら銀河鉄道999」の最後に、プロメシューム=サタンが命の火がなくなり封印され、メーテル=ルシファーが絵画に封印された。自分の感覚では、ルシファーを封印というか、ルシファーが離れたら、破滅するのが正解という直観がある。つまり、あえて破滅を表現することによって、破滅を避けられるっていうか。

だから、りんたろう監督の、その次のアニメ映画は「幻魔大戦」で、まさに人類の破滅がテーマだが、しかし、これ内容的には正しく破滅していない。だって、明らかに死んだ人間の数と言ったら(冒頭のジャンボジェット一機の爆発と、警察に銃殺されるギャング団のソニー一味を除けば)、幻魔ザンビが憑依した沢川淳子と警察官1名、東三千子、幻魔ザメディが憑依した江田四朗、幻魔カフーが憑依した永井荷風に似たおじさん1人の計5人だけで、他の大多数の人間たちは一体どこにいるのか、生きているのか死んでいるのかさえも、描写も説明も一切ないので、まったくわからない。人類が破滅しているのかどうか、破滅寸前なのかどうか、それすらもわからない。そういう状況で、人間のESPたちが、幻魔と戦う必然性がどこにあるのか?

それに、最近、村上春樹「夏帆」(2026年7月3日発売)を読んで感じたけど、何らかの精神体に憑依された人間が悪事を行った(あるいは行う)場合、その人間を殺してしまっていいのか? という問題がある。夏帆さんはそのことで悩むのだが、りんたろうの「幻魔大戦」では、最初に幻魔に憑依された沢川淳子を殺した後で、人を殺したことで確かに悩むのだが、これは幻魔が憑依していたのではないかと推測したことで、気持ちが一気に軽くなると言う作劇で、その後は、幻魔が憑依した人間をいくら殺しても何とも思わないという、とんでもない作劇になる。アニメ映画「幻魔大戦」の作劇は異常でしょ? 一種、考えるべきことを考えない、逃げに逃げた作品である。

でも、この「考えるべきことを考えない」というのは、りんたろう監督の特色で、彼の一番のヒット作である劇場アニメ「銀河鉄道999」では、終着駅の機械化母星を構成する、人間から作られた構造体や部品(=生きている)を、皆殺しにする。続編の「さよなら銀河鉄道999」では、食料のカプセル(=殺された人間の魂が小分けにされて入っているが、極秘事項)を食べた、終着駅の惑星にいる機械化人間を、皆殺しにする。これらの人間に罪はないと思うのだが、りんたろう監督は、終盤を盛り上げるために、容赦なく皆殺しにする。

まあ、いざとなれば力業で押さなければならない演出もあるというのはわかるが、それならばですよ、自分の感覚では、「幻魔大戦」では、きっちり地球人類を(ある程度は)破滅させる必要があったにもかかわらず、破滅させられなかった。りんたろう監督は、考えないだけでなく、逃げてしまった。少し前で、「あえて破滅を表現することによって、破滅を避けられる」って書いたけど、それができなかったために、りんたろう監督は、「幻魔大戦」以降、売れない監督に成り下がってしまった。と思うのだよね。

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